The Dragon Scroll

Be just and fear not.

帰ってくる物語の「カイゼン・ジャーニー」と、帰らない物語「チーム・ジャーニー」

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 カイゼン・ジャーニーとチーム・ジャーニーのイラストを並べてみました。

 こうして並べてみると、いろんな人物がいますよね。しかもこれで全員ではありません。人物設計は楽しみである反面、難しさが伴います。ジャーニーシリーズは小説のていを取っていますが、その本分は現場実践に繋げられることです。ですから、ただおもしろおかしい人物が出てくればそれで良いわけではなく。むしろ、人物が多いと内容の見通しがつき辛いため、最小限に留める必要があります。

 また、単なる架空のキャラクターではなく、「現場に居そう」感を前提としています。現場に居そうだからこそ、どうやってコミュニケートしていくか、問題を乗り越えていくか、そのリアリティを感じられるはず。

 どの人物にも思い入れがあります。特に、チーム・ジャーニーの"皇帝"には。彼は、あきらかに主要メンバーにもかかわらず、そうそうに物語から退場して「帰ってくる」ことがありません。強烈なキャラクターだけに引っ張ると、退場させにくくなる。だけど、彼はチーム・ジャーニーという舞台を成り立たせるために絶対に帰ってもらう必要があるわけです。チームに対峙するシンボリックな存在だからです。

 しかし、ただ悪者が居なくなる、というのはあまりに一面的です。現実世界はもっと「良かれ」にあふれています。チームや開発で、強烈な対立軸があったとしても、当人同士はそれぞれの「良かれ」で動いているだけだったりする。「こうした方が経験的に開発がよくなる」「いやそうじゃない、それは筋が悪い」といった応酬。相手をただやりこめたい(...ということもあると思いますけど)わけではなく、ただそれぞれのより良くあろうとする考え、思いから対立は起きたりする。

 皇帝はその事実を示すために存在します。だからといって、チームのこれからのあり方と合っているわけではない。だから、何も言わず退場し、その後一切絡むことがない。こうしたチーム・ジャーニーの方向性は、「帰ってくる物語」のカイゼン・ジャーニーとは一線を画すところです。

 これは私のチーム観に依るところです。チームとは、そのあり方を突き詰めていこうとすると「選ぶ」という力学が働く。チームが"チームらしくあろう"とするほどに。逆に言うと「選ぶ」がないチームは、まだ「ごっこ」でしかない。

 そういうわけで、一身に背負って去っていった"皇帝"が悪で、残ったチームのあり方こそが正しいということを言いたいわけではありません。現実とはそんな一面的な、分かりやすいものではない。彼には彼の次の場面がきっとある。そのことを表現するために、別の「チーム・ジャーニー」を描きはじめています。

codezine.jp

 そう、CodeZine版のジャーニーもイラストを用意してもらっています。書籍とはトーンが違いますね(書籍とは違う方が書いています)。

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 こうして眺めていると、著者自身が彼、彼女たちに励まされてくるところがあります。この不思議で面白い現実の世界をどう切り取って、表現していこうかと楽しみになってきます。というわけで、引き続きジャーニーをよろしくおねがいします。