The Dragon Scroll

Be just and fear not.

フューチャリスト宣言 (ちくま新書)

フューチャリスト宣言 (ちくま新書)

フューチャリスト宣言 (ちくま新書)

僕がグーグルが賢くしてやんるだよ。


本書の前半に出てくる、梅田氏のこの言葉が、フューチャリスト宣言 (ちくま新書)
のクライマックスの一つだろう。

ロングテールが、まだ検索エンジンで日本語の情報が引っかからなかった時分に
梅田氏は、沢山の情報をネットに向け発信していた。
その結果、梅田氏の書いたロングテールという言葉、Google検索エンジン
ヒットし、現れるようになった。
ネットに、一生懸命、モノを発信することは、最終的には、
Googleが賢くなっていくことに貢献していることになる。
それをGoogleに消費されていると思うかどうか?


それに対する、梅田氏の現時点での結論が、冒頭の言葉。
自分が、貢献していると考える。
その代わり、リアルライフは誰にも渡さないという考え。


なるほど、そのように考えることができるのか、と気付かされた。
私は、様々なウェブ上のツールを、単なる手段であり、それ以上の
何者でもない、それを生かすかどうかは我々次第、くらいに
考えていた。
しかし、実際には、その手段に、自分を消費されていると
捉えることができる。
実は、我々は、手段に利用される、手段にすぎないかもしれない。


何かを利用する際は、それが持つルールに従わなければ
ならない。
手段は、そのルールで使い手の行動や思考を縛っていく。
Googleの検索アルゴリズムもその一つだろう。


Google検索エンジンは、我々に、ネットの海を泳ぐ
術を与えてくれた。
それと同時に、それ以外の手段を考える思考を、我々から
奪っているのかもしれない。


検索エンジンでできることは、自分が思い浮かべる言葉を
入力し、それに関連するモノをネットの海から
拾ってくること。
しかし、自分が本当に欲しい情報と、入力のために
思い浮かべた情報とが本当に適合しているかどうかは
わからないのだ。
ひょっとしたら、別の言葉で検索してこそ、本当に
欲しい情報に辿り着けたかもしれない。


検索というのは、海にたらした、一本の釣り糸かもしれない。


ネットの海という広大なリソースに対して、情報を引き出す
手段が、一般ユーザにとって、小窓からたらす釣り糸の
検索エンジンか、RSSくらいしか無いのは、貧弱と
言えないだろうか。


私は、Plaggerが新しい手段として、大きな可能性となるのでは
ないかと、個人的には思っている。
Yahoo!Plaggerは、Plaggerを、一般人に使ってもらえるような
仕組みの方向性として、かなり期待できる。


本というのはリアル世界だけの存在だと思われがちだけども、ネットの海、情報の海に、空から降りてくるときに、錨をおろすリファレンス・ポイントになるんですね。雑誌は、そういう錨をおろすポイントになっていない。


本書後半の、茂木氏のこの言葉が個人的に、示唆を与えてくれる言葉となった。


このネットの時代に、雑誌や本が持つ意味とは何か?
よく考えることだが、中々腑に落ちる結論に辿り着けないでいた。
なぜならば、私は、ここ最近、ネットに居る時間が爆発的に増えたが
同時に、さらに爆発的に本を買うようになったのだ。


乾ききった喉を潤すように、とにかく様々な本を飲み干そうとする。
いよいよ、私の部屋から本が溢れるようになってきた。


しかし、所詮、紙の情報である。
参照性が高いというわけでもない。
情報を抽出して、携帯するのに優れているわけでもない。
その上、高価である。
それに対して、ネットは、全く逆の性質を備えている。
私にとっても、この現象は不思議に思うことだった。


ネットを雑誌や新聞と捉えると良いかもしれない。
両者はその役割の上で、競合してしまっている。
雑誌・新聞にとっては、最強にして、最大の競合相手である。
従来の考え方のままでは、まず、勝てないだろう。
これまでとは違う、付加価値を、自分たちの媒体に
与えなければならない。
フローという性質を持つ媒体にとっては全て同じことが
いえる。テレビも然りである。


しかし、我々はフローの世界だけで生きているのではない。
同時に、ストックの情報を得ようとする。
フローの情報は、我々の上を過ぎ去ってしまう。
もう二度と、我々には帰ってこないのではないかと
思ってしまう。
だからこそ、ストックの情報が必要に思えてくる。
本という、フローの世界では、錨のように固定された
ストックを手に入れておきたいと思うようになる。


ネットは、ストックの性質も備えている。
情報が逃げていかないのだ。
だから、ネットの向こう側に預けていれば良く、
わざわざ、こちら側に連れてくる必要はない。


ただし、爆発的に広がっていくフローの海の中から
自分が食べたい魚を見つけ出すということを
やらなければならない。
これは適切な手段がなければ、全く現実的な話ではない。
これが、このブログの前半に提示した、私が思う
課題。


ここが、本とネットの間にある溝である。
私の本棚には、私が食べたい魚しか格納されていない。
私は、食べたいものを無造作に手に入れることができる。
そして、それは、私から逃げていかない。
だから、本という固定点を、我々はネットとは別に
欲するのだろう。


ただし、私が抱えるその世界も、徐々に広がっていく海と化して
行っているような気は、激しくしているのだが・・・。