時を超えた越境への道。
越境という行為は、本当のところ、誰にとっての幸せなのか?と考えていた頃があった。
例えば、現場を変えるために、もっと納得のいくソフトウェアが作れるようになるために、現場改善をはじめる。あるいは、組織内の活動をはじめる。自分の時間を、情熱を、一点に注ぐ。
そして、他の現場は、他の組織は、どうなっているのかと、見聞を広げようとし始める。内のために、外に目を向ける。外との関わりの場にも出かける。結果、世界が一気に、広がる。
広がった世界を前にして、悩みが生まれる。自分が、ここで努めていることは、本当に合っているのかと。実は、ムダなことをしているのではないかと。現場を変えるのか、会社を替えるのか。
意識が高まり、何とかしようと様々活動していた人にほど、延長線上には無かった違う一歩を踏み出す、ということが起きたりする。私がかつていたある組織では、たくさんの尖った仲間たちがいた。当時の社内とSNSには、異様な面白さがあった。刺激的で、前向きな、アングラ風土があった。ところが、思い思いのタイミングで、一人、また一人と組織を離れてしまった。私もその一人だ。
現場をなんとかしたい、正しくつくりたいと、思い悩む人から相談めいたことをうける度に、私はなんとも言い難くなり、しばしば返事に窮するのだった。
「もう、おやめなさい。あなたのガッツとパッションと能力なら、きっと、他でも大いに活躍できる」
と出かかる。しかし、それを口にしてしまったら、その人の思いは一体、どこへ行ってしまうのだろうか、と言い淀む。私はただ、ただ話を聴いて、出口のなさそうな問題に一緒になって考え、時間を共にすることしかできなかった。
ある時、別の考えが浮かんだ。
私自身が越境すればするほど、自分自身に向きあい、考えやふるまいを問い直し、その度に発見があり、苦しいながらも、前に進めていることに気づいたときだった。
広がる選択肢を、他人が心配する権利などない。
越境し、分かることが増えるというのは、選択肢が広がるということだ。大いに悩み考えた上では、どの選択肢が合っていて、どの選択肢が間違っているかなんて、言えなくなる。ましてや他人が、その人の選択について良し悪し言えるわけがない。どの道を取ったとして、自分自身の選択なのだ。道を選べる事自体が、越境した人のみに贈られる、ギフトだ。
越境の結果、もたされる喜びも、悩ましさも、全部のその人のものだ。自分が望むだけ、越境すればいい。
15回目のデブサミで、私は越境の話をした。
デブサミで話すこと自体も越境であるし、その結果分かることがある。希望も、絶望も、両方ある。だから、話すべきかなのか、逡巡するときがある。しかし、今はもう分かっていた。たった一人でも、誰かに届いたならば、目的が果たせることに。