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The Dragon Scroll

Be just and fear not.

半径5メートルも、自分。

ほぼ日記

https://www.instagram.com/p/BMVk-m1A-rS/

先日の会社の事業合宿にて、たまには私へのフィードバックをと根堀葉掘り聴くと意外なことがわかった。(相手の方は、夜の1時まで付き合わされて、大変めんどうであったに違いない)

それは「これは違うなとわかった時のインターフェースが、唐突に変わりすぎる」というものだった。

これは自分では意外すぎた。自分の外面は自分で完璧にコントロールしているつもりだった。どうも、ミーティング中でも私から「これは違いますね」感が漂い始めるらしく、ミーティングの雰囲気が微妙になっていく。
この「違う」の対象は「考え方」についての場合が、多いように思う。人と人同士、違って当然なのであるが、こと仕事において「正しいものを正しくつくる」だとか「越境」だとかという軸と照らし合わせて「違った」場合、このまま進めていくべきかは大いに考えることになる。
「進め方」が違う場合は、時間をかければ整えられることが多いが、「考え方」の場合は、違ったまま時間を進めても、双方にとって不幸になることが多いと信じている。Howレベルは何とかなるが、Whyレベルで方向性が違うと、上手くいく芽が小さい。
開発の現場というのは、スポーツでのチーム、音楽でのバンドみたいなものだから、方向性が違うと具体的な活動でいちいち不協和音が生じ、えんえんと悩み続けることになる。ということが、もう経験的に身に染み付いてしまっている。だから、Why違いには敏感になる。
一方、自分の軸と照らし合わせる「システム」のようなものが無意識に働いているのは、自身が軸を大事にしている証左で良い反面、やはり気をつけなければならない。
さすがにTPOを弁えるので「これは違うな」と思ったところで、話をぶったぎることは、あまり無い。だが、同席している人を醸し出す微妙な雰囲気でドキドキさせることがあるらしい。これは反省しなければならない。とっくに、自分の外面に責任をもつべき立場と年齢だ。
スポーツ選手はまず自分の体のコントロールを完璧にすることを目指すそうだ(と、武井壮が言ってた)。自分自身のことを自分で認識できていない、自分の意思で制御できないレベルで、果たして目指すべき成果が得られるのか、という。もっともだ。